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京都大学考古学研究室の最近の調査活動から

2004年度紫金山古墳発掘調査現地説明会資料(2004.8.29. text only)

1.はじめに
2.発掘調査の目的
3.発掘調査の成果
4.出土遺物
5.調査成果のまとめ


1.はじめに
 紫金山古墳は、後円部頂に給水用の貯水槽を建設する際に竪穴式石槨の一部が偶然みつかり、1947年4・5月に、大阪府教育委員会古文化紀念物調査委員会の事業として、梅原末治を主査、小林行雄を担当者とする発掘調査がおこなわれました。その結果、竪穴式石槨の内部や壁体上部外縁から、12面の銅鏡をはじめとする多様な遺物が発見され、古墳時代前期を代表する古墳として広く知られてきました。

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 しかし、1947年の調査で墳丘の測量がおこなわれ、部分的な発掘により葺石や埴輪列の存在が確認されたものの、具体的な古墳の形態・規模・構造については、ほとんど明らかにされてきませんでした。こうした問題を解決するために、京都大学考古学研究室では、科学研究費の交付を受け、3年計画で紫金山古墳の墳丘調査を進めることになり、2003年3月に墳丘の測量調査、同年8・9月には墳丘北側・東側・西側の発掘調査をおこないました。本年度は、紫金山古墳の墳丘南側の範囲と形状を明らかにするために、去る8月2日より発掘調査を実施しています。

2.発掘調査の目的
 今年度の発掘調査は、紫金山古墳の墳丘の規模と形態をめぐる、以下のような課題を解決するためにおこなっています。

(1)北側くびれ部の墳丘構造・古墳範囲の解明
 昨年度の発掘調査で完掘できなかった第4トレンチを再発掘し、北側くびれ部の構造の理解を深めることを目指します。また、第3トレンチの一部を拡張して、前方部墳丘とその北側にある「マウンド」の可能性が指摘されている部分の関係を明らかにします。

(2)後円部南西側の平面形態および立体構造の追求
 1947年の調査以来、紫金山古墳は「前方後円墳」として知られてきました。しかし、最近、その墳形を「前方後方墳」とする説が提示されています。そこで今年の調査では、墳丘の主軸から南西に45度振った方向にトレンチを設定して(第5トレンチ)、墳丘の範囲および平面形態を明らかにすることを目指します。また、斜面の葺石や平坦面の位置を明らかにし、3段築成であることが明らかになった第1トレンチの構造と比較することにより、後円部の立体構造を解明する手がかりを得たいと思います。

(3)前方部南側斜面の平面形態および立体構造の追求
 昨年度の発掘調査により、前方部の北側斜面は3段築成であることと、前方部前面(東側斜面)は、小林行雄が想定していた墳裾より1段低いことが明らかになり、前方部の形状が従来の想定とは異なる可能性がでてきました。今年度の調査では、前方部南側斜面にトレンチを設定して(第6トレンチ)墳裾の位置を明らかにし、前方部の基本的な平面形態を確定したいと思います。また、段築の状況、葺石の詳細な構造、埴輪列の有無などを追求し、前方部の立体構造を復元するための、より具体的な手がかりを得たいと思います。

3.発掘調査の成果
 各トレンチにおけるこれまでの調査成果は以下の通りです。

(1)第3トレンチ
 前方部墳丘とその北側にある「マウンド」の可能性が指摘されている部分の関係を明らかにするために、昨年度の第3トレンチの一部を延長して設定した、幅1.5m、長さ約7.5mのトレンチです。

 これまでの調査で、地表から約25cmのところで須恵器・土師器と炭が混じった層が確認されました。そして「マウンド」と考えられた部分は、それよりも上に堆積した土によって形成されていることがわかりました。

 また、上記の炭混じりの層が確認されたことにより、この場所は紫金山古墳築造後に何らかの目的で使用されたと考えられます。

(2)第4トレンチ
 北側くびれ部の形状を明らかにするために、昨年度の調査で設定した、東西6m、南北4mのトレンチです。

 今年度は、昨年度調査できなかった後円部斜面の精査をおこなうために再発掘をおこなっています。その結果、前方部側には大振りの石を用いた葺石がよく残っているのに対して、後円部側では原位置をとどめる葺石がほとんど存在しないことが明らかになりました。

(3)第5トレンチ
 後円部南側の範囲と、葺石・段築・埴輪列の状況を明らかにするために、墳丘の主軸から南西側に45度の方向で設定した幅1.5m、長さ33.5mのトレンチです。

 これまでの調査で、3つの斜面が確認されています。各段斜面の一部には葺石がみつかりましたが、残存状況はよくありません。また、第1段平坦面はよく残っていましたが、第2段平坦面はほとんど残っていませんでした。

 昨年度調査した第1トレンチの第1段平坦面の位置と比較して、第5トレンチの第1段平坦面は約2m低くなっています。また、第5トレンチの平坦面・墳裾の平面的な位置は、現在の後円部頂を中心として第1トレンチの平坦面・墳裾を通る正円よりも外側にあります。

 各平坦面では埴輪列を確認することはできませんでしたが、転落した葺石の間から普通円筒埴輪片が出土しました。

(4)第6トレンチ
 前方部南側側面における葺石・段築・埴輪列の状況を明らかにするために設定した、幅1.5m、長さ29.5mのトレンチです。

 これまでの調査で、3つの斜面と2つの平面が確認されており、前方部南側斜面も3段築成であったと考えられます。葺石は、第1段・第2段斜面の一部で残っていました。第1段・第2段平坦面は斜面側が削平されており、幅0.8m程度が残っていました。

 第2段平坦面は、昨年度調査した第3トレンチ(前方部北側斜面)の第1段平坦面と、主軸をはさんで平面的にほぼ対称の位置にあり、高さは0.7mの差があります。それにくらべて、第1段平坦面は1.7m、墳裾は約3m、第6トレンチの方が低く、平面的にも南側に大きく広がっています。

 埴輪列はみつかりませんでしたが、今年度調査しているトレンチの中では最も埴輪の出土量が多く、普通円筒埴輪片や朝顔形埴輪片が出土しています。

4.出土遺物
 今年度の調査では、遺物箱で5箱程度の遺物が出土しました。第3トレンチで出土した土師器・須恵器を除き、大部分は普通円筒埴輪と朝顔形埴輪です。

 一方、昨年度の出土遺物を整理した結果、北側くびれ部の第4トレンチから出土した特殊な形状の鰭(円筒埴輪の側面につけられた板状の装飾)がつく円筒埴輪が、大阪府柏原市に所在する松岳山古墳の前方部前面に立てられていた楕円筒埴輪と同じ形状をもつことが明らかになりました。このことから、2つの古墳はほぼ同じ時期に築造されたと推定されます。また、旧河内国に所在する松岳山古墳と旧摂津国に所在する紫金山古墳の間で、同じ形状の鰭をつけた円筒埴輪が製作・使用されたことは、異なる地域の首長の間で、特殊な形状の埴輪を製作・使用する情報が共有されていたことを示しています。紫金山古墳から出土した三角縁神獣鏡や、竪穴式石槨に用いるために他地域から持ち運ばれた安山岩や結晶片岩は、大和をはじめとする近畿地方各地の首長との関係の中で紫金山古墳が築造されたことを示す手がかりとされてきました。特殊な鰭付円筒埴輪の発見は、紫金山古墳をめぐる当時の地域間関係を明らかにするための新たな手がかりを提供することになりました。

5.調査成果のまとめ
 今年度の発掘調査により、墳丘の大部分が、後円部頂付近をふくめ、地山を削り出してつくられたこと、墳丘の南側も3つの斜面と2つの平坦面からなり、斜面には葺石をもつことが確認されました。また、平面形態が前方後円形を呈する可能性が一層高まりました。

 一方、墳丘は主軸に対して対称形ではなく、また墳丘の北側と南側でも墳裾の標高が一致しないことが明らかになりました。従って、紫金山古墳の墳丘は精美な前方後円形ではなく、南東方向に傾斜した、やや歪んだ形状を呈している可能性が高いと考えられます。これまでのトレンチ調査による成果から、墳丘の平面・立面形態の復元をどこまで進めることができるかが、今後の検討課題です。

 出土した埴輪については、昨年度以来の整理作業を通して、その形態や製作技術上の特徴の把握を進めています。今後は、周辺地域の古墳から出土した埴輪との比較からその年代を明らかにし、さらに竪穴式石槨から出土した副葬品に基づいて推定されていた古墳の年代観と総合することで、紫金山古墳の築造年代についての検討を進めていきたいと思います。

謝 辞
 今回の調査にあたっては、大阪府教育委員会・茨木市教育委員会のご指導を受け、大阪第二けいさつ病院からは、敷地の一部利用をご許可いただきました。また周辺住民の皆様のご協力を得て、順調に調査を進めることができております。皆様のご配慮に対して御礼申し上げるとともに、今後ともご支援のほどよろしくお願い申し上げます。


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