宗教研究にはさまざまなアプローチの仕方があるが、当専修では伝統的な宗教哲学を中心に据えている。人間存在の根源を掘り下げて思惟し抜く力の育成がめざ される。
杉村靖彦 | 教授 | 宗教哲学、現代フランス哲学、京都学派の哲学 |
伊原木大祐 | 准教授 | 宗教哲学、現象学 |
皆さんは宗教と聞くと、何を思い浮かべますか。禅堂で座禅をしている僧侶の姿や、教会で日曜日に行われる礼拝の有り様でしょうか。路上で勧誘してくる宗教団体の人たちかもしれません。葬式や結婚式や正月の初詣を思い浮かべる人もいるでしょうし、地下鉄サリン事件や世界各地の宗教紛争を思い浮かべる人もいるでしょう。宗教学は、こういう実にさまざまな様相をもつ宗教現象を研究対象としています。現象が多様なものであるだけに、その研究は多様な方法で行われていますが、京大文学部の宗教学専修では宗教哲学を中心としています。
宗教哲学は、つきつめて言えば、私たちは何のために生きるのか、という問題を哲学的に追究する学問です。そう言うと、仏教とか、キリスト教とか、神道とか、天理教とか、そういうものを研究するのではないのか、と不思議に思われるかもしれません。しかし、そういう具体的な宗教が起こってきたもとにあるのは、人間が生きるということの根底に横たわっている問題そのものであるはずです。逆に言うと、特定の宗教を研究対象として限定しなくても、あらゆる人間の現象が研究の対象となると言うことができます。この学問で重要なのは、自分の関心を人間の存在の仕方という方向に深く掘り下げる態度です。
自己と世界の問題を掘り下げて考えてみたいと思う人は、宗教学を学んでみてください。
教 授 | 杉村 靖彦 | 現代フランスの宗教哲学 |
宗教研究にはさまざまなアプローチの仕方があるが、伝統的に、当専修は宗教哲学を中心に据えている。宗教においては、人間が人間として世界のなかにあることの根源、自己の存在の根源が問題となる。その意味で、「宗教とは何か」という問いは、哲学の根本問題と自ずから触れ合うことになる。このように宗教と哲学とが切れ結ぶ地点に立ち、そこから生じてくる思索の行方を追究することが、宗教哲学の課題とするところである。
したがって、宗教史学、宗教心理学、宗教社会学、宗教人類学等々の記述的・実証的宗教学については、当専修では主題的には取り扱わない。しかしもちろん、学生諸君のそれぞれの関心に基づいた宗教現象、宗教思想へのアプローチを排除することはない。
宗教哲学という学問の性格上、本専修では、各人が自らの関心に基づいて比較的自由に研究を進めることを認めている。とはいえ、自らの問題をより良く掘り下げて展開するためには、自分の手持ちの言葉や概念だけにしがみついているのではなく、優れた先人の洞察に分け入り、それを丹念に学ぶことによって自己の思索を鍛え抜くことが必要である。それゆえ、欧米や日本の優れた宗教哲学者・思想家のうちから一人を選び、集中的に研究することから出発するのが望ましい。
専修を希望する学生には、何よりも研究への関心と情熱をもち、研究を深めていくために必要な長期間の鍛錬に耐えうる決意をもっていることを求める。この鍛錬においては、必要な外国語文献を読みこなす語学力を身につけることが不可欠である。文献研究自体が目的ではないが、それを抜きにして、宗教哲学の諸問題を究明していくために十分な思索力を養うことは不可能だからである。したがって、英語、ドイツ語、フランス語のうち少なくとも二ヶ国語を読みこなす力をもっていることが望まれる。
参考までにここ数年間に当専修の院生が専門とした思想家を列拳すると、カント、キュルケゴール、ニーチェ、ヤスパース、ハイデガー、メーヌ=ド=ビラン、ヴェイユ、メルロ=ポンティ、ナベール、リクール、レヴィナス、ジェイムズ、親鸞、エックハルト等、近現代の西洋哲学者を中心としながら多岐にわたっている。院生はそれぞれ自分の研究を掘り下げながら、第二演習(院生の発表と議論を中心とする演習)やさまざまな読書会、研究会を通して宗教哲学的問題全般への考察を進めている。
授業については、本専修の専任教員による特殊講義や演習に加えて、学外からの非常勤講師によって専任教員の専門外の分野を補うように配慮している。