明治22年6月5日岐阜県長良村に生れる。生家は浄土真宗篤信の農家で、幼年時代より真宗の僧侶になることを願うも、青年期、科学的知識に接するにおよび、従前の「中世的」信仰を棄て、理性の自律に基づく哲学を志す。
第三高等学校を経て京都帝国大学哲学科に入学し、西田幾多郎の指導を受けるが、学問的対象として客観化できない「私といふもの自体の存在」の問題に悩み、大正4年、西田の薦めによって妙心寺の池上湘山老師に参禅。直後の臘八大接心において「無相の自己」に目覚める。
その後、臨済宗大学教授、京都帝国大学講師等を歴任しつつ、昭和14年に主著『東洋的無』を刊行。昭和21年京都大学教授(仏教学)。独自の禅哲学を展開すると同時に、戦中に設立された「心茶会」や「学道道場(後のFAS協会)」の指導に当る。「私は死にません」という言葉を残し、昭和55年2月27日逝去。
久松真一は、西田幾多郎や鈴木大拙、西谷啓治らと並ぶ近代日本の代表的な禅・思想家の一人である。しかし、久松の思想には、他の禅・思想と比較して際立った特徴があると考えられる。それは、久松の思想が、常に禅の第一義の立場(「覚」の立場)から語られているということである。久松は、禅・思想家というよりは、寧ろ端的に「禅者」の風貌をもっていた。
久松は、「覚」の立場における絶対者と自己との同一を説く。久松によれば、自己と絶対者との間に間隙のあるキリスト教や浄土真宗は、なお真の自覚の立場に立つものではない。このような態度は、他の禅・思想家がそれらの宗教の中にも積極的なものを見ていたのとは対照的であるといえる。
とはいえ、久松の立場は、現実の世界とのかかわりを断ち、単に個人的な宗教的体験に閉じこもる立場では決してなかった。そのことは、久松が主催した学道道場の標語「FAS」に端的に現れている。「FAS」とは、形なき自己(Formless self)に目覚め、全人類(All mankind)の立場に立ち、歴史を越えて歴史を創ろう(Superhistorical history)という主張である。久松の「覚」の立場は、「近代」的な人間観がもたらす問題点を超克すべき「ポストモダン」の人間像の提唱にもつながるものであった。
久松に対しては、彼の弟子筋の人々の間で、多くの信奉や称賛の言葉が捧げられてきた。しかし、久松の思想を対象化し、その哲学的・思想的意義を見出すということは、未だ十分になされていないと言わなければならない。通常の意味での哲学や思想ということ自体を否定する久松の哲学的・思想的意義を求めるということは、矛盾を含んだ、困難な仕事でもあるであろう。しかしそこには、豊かな思想の源泉が隠されていることが予想される。
『東洋的無』(昭和14年) | 『起信の課題』(昭和22年) |
『茶の精神』(昭和23年) | 『絶対主体道』(昭和23年) |
『禅と美術』(昭和33年) | 他 |
選集
単行本(入手可能なものを中心に)
対話
久松の人物を知るために、久松自身による自伝:
入門として:
久松の人物と思想とを紹介する単行本:
哲学的意義の解明の試みとして:
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