思想家紹介 柳宗悦

柳 宗悦1889-1961(明治22-昭和36)

略 歴

1889(明治22)年、柳宗悦は東京市麻布区市兵衛町二丁目十三番地に貴族院議員である柳楢悦と母勝子の三男として生まれる。父は彼が幼少の頃に亡くなったが、父の残した莫大な遺産によって何不自由なく成長し、学習院初等科に入学。中等科に進む頃に、後に共に雑誌『白樺』を創刊する志賀直哉や武者小路実篤らと知り合い、生涯の友となる。更に学習院高等学科では、鈴木大拙や西田幾多郎に学び、1910(明治43)年、無事高等学科を卒業後、東京帝国大学文科に進む。また『白樺』はこの年に創刊される。

東京帝国大学で哲学を専攻した柳は、当初、宗教に深い関心を示していたが、ウィリアム・ブレークに興味を持ったのをきっかけに、宗教と芸術の関係に関心を持つようになる。1913(大正3)年、東京帝国大学卒業後、声楽家の中島兼子と結婚し、千葉県我孫子へと転居する。その後、我孫子へは志賀やバーナード・リーチも転居し、白樺同人もしばしば訪れたために、さながら芸術家コロニーのようであったという。

1919(大正8)年、『宗教とその真理』を刊行、四月に東洋大学教授となる。朝鮮の美術に関心を持っていた柳はこの頃盛んであった朝鮮の独立運動に関して日本の朝鮮政策批判の文章を書いている。更にこの後数年にわたり、しばしば朝鮮を訪問し、「朝鮮民族美術館」設立を計画、1924(大正13)年完成にこぎつけた。

1924(大正13)年、前年の関東大震災で被災した柳は一家で京都へ転居する。そこで濱田庄司を介して河井寛次郎を知り、しばしば三人で京都の市に出向く。そこで発見した古い器や着物、いわゆる「下手物」が後の民藝思想へと繋がっていく。  またこの年、甲州で木喰仏を見て、研究を初め、翌年1925(大正14)年、『木喰上人之研究』に多数の論考を発表。

1926(大正15/昭和1)年、河井・浜田と高野山で民藝の運動について話し、その後『日本民藝美術館設立趣意書』を発表、さらに『越後タイムス』に「下手ものの美」を発表。この頃から柳の民藝運動が始まる。

1929(昭和4)年、『工芸美論』刊行、さらに1931(昭和6)年、月刊雑誌『工藝』を創刊。この頃、頻繁に民藝品収集のため日本各地を旅する。1934(昭和9)年、日本民藝協会を設立、会長に就任し、同年十二月『美と工藝』を創刊。1936(昭和11)年、大原孫三郎の援助などにより日本民藝館が完成する。

1938-39(昭和13-14)年にかけて沖縄に滞在し、豊かな沖縄の民藝を知り、その紹介と保存に尽力する。また当時沖縄でなされていた本土への同化政策(具体的には標準語欣行運動)に批判的立場をとり、その後の沖縄方言論争を巻き起こすことになった。

1949(昭和24)年、『美の法門』を上梓。その後も活発に著述、調査旅行を行うが、この頃からリウマチと心臓の不調に悩まされるようになり、1961(昭和36)年、72歳で没する。

思 想

「民藝」という言葉を生み出したことで有名な柳宗悦であるが、若き日は様々な二元に引き裂かれる人間存在にとって、可能な救いとは何かを問い求める宗教哲学者であった。そこで彼が見出したのが、二元の多様を内包すると同時に「実在/神の閃き」を映し出す「自然」であった。そして、「自然に則る生き方」こそ、現世に生きる人間が「二にあって一に達する道」であると考えるようになる。

しかし、そのような「自然に則る生き方」とはどのようなものなのか。彼は下手物の収集や、各地を旅行し、土地に根付いた人々の生活を見るなかで、「自然に則る生き方」の具体的発現を見つける。それこそが「民藝」である。柳によれば、鑑賞される純粋な美術品とは異なり、民藝は「下手物」、つまり日々の生活のなかで使われる道具であり、したがって、民藝の美は、用に即することによって生まれる「用即美」である。そのような民藝は、美術品が一部の天才的個人によって作られるのとは対照的に、あくまでも普段使いの工芸品として、名も知れぬ民衆によって生み出される。名もなき民衆が生活のため、その地で与えられた天然の資源を基に作り、日々の生活のなかで使われるものだけが「民藝」と呼ばれるに値する。そのような民藝は土地と生活に生みだされたものであり、それゆえに「器には自然の加護がある。器の美は自然の美である」と柳は言う。そのとき民藝は柳が求め続けた「自然」の開示となる。しかし、このような民藝を生み出したのは無学な名もなき民衆である。彼らは救いを求めて、工芸品を作るわけではないが、生活のため、工芸品を作るなかで、深く土地の自然と交わり、自然へと帰依していく。そうして作り出された民藝に偶さか「自然」が開示され、「美」が宿る。凡夫でありながら、自然に帰依するとき、美を生み出す力が与えられるということ、柳はそこに無力な衆生が仏に身をゆだねることで救われる「他力道」のあらわれを見てとる。それは柳が若き日に求めた「二にあって一に達する道」であった。

柳のテキスト

    ① 主要著書
    『宗教とその真理』(叢文閣・1919)
    『雑器の美』(工政会出版部・1929)
    『工藝の道』(ぐろりあそさえて・1928)
    『工藝美論』(万里閣・1929)
    『美と工藝』(建設社・1934)
    『工藝文化』(文藝春秋社・1942)
    『美の法門』(私家本・1949)

    ② 全集
    『柳宗悦全集 全二十二巻』(筑摩書房・1980-92)

    ③ 現在入手しやすい単行本
    『工藝の道』 (講談社学術文庫・2005)
    『新編美の法門』 (岩波文庫・1995)
    『茶と美』 (講談社学術文庫・2000.)
    『手仕事の日本』(岩波文庫・ 1985.)
    『民藝四十年』 (岩波文庫・ 1984)
    『蒐集物語』(中公文庫・2005)
    『南無阿弥陀仏―付・心偈』(岩波文庫・2003)
    『柳宗悦随筆集』(岩波文庫・1996)

主な参考文献

    鶴見俊輔『柳宗悦』(平凡社・1976)
    水尾比呂志『評伝 柳宗悦』(筑摩書房・2004)
    出川直樹『人間復興の工藝―「民芸」を超えて』(平凡社・1997)
    竹中均『柳宗悦・民芸・社会理論―カルチュラルスタディーズの試み』(明石書店・1999)
    伊藤徹『柳宗悦―手としての人間』(平凡社・2003)
    中見真理『柳宗悦―時代と思想』(東京大学出版会・2003)
    熊倉功夫・吉田憲司編『柳宗悦と民芸運動』(思文閣出版・2005)
    木岡伸夫・鈴木貞美編『技術と身体―日本「近代化」の思想』(ミネルヴァ書房・2006)
(宮野真生子記、2006年7月)

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